映画『世界から猫が消えたなら』(2016)を観てみた。
概要はこうだ。
余命宣告をされた僕の目の前に悪魔が現れる。悪魔は僕に告げる。
「君は明日死ぬ。君の死を1日延ばす代わりに世界からひとつ消滅させる。」
悪魔によって1日1日生き延びながら大切なものの存在が消えてゆく。
丁寧なつくり・構成に佐藤健の演技が加わった力作。
しっとりとゆるやかな話の流れで、綿で首を絞められているかのようにジワジワと追い込んでくる。
さらっと観るつもりだったのに、思わず見入ってしまった。
悪魔の提案で次々と世界から何かが消え去っていく。「電話」「映画」「時計」。。
「そんなもの無くなっても困らない」「生き延びることが大事」
迷いながらも自分の命の代償として大切なものを差し出す。
世界から電話がなくなった。
間違い電話をきっかけに仲良くなった彼女。電話のない世界では二人が出会うことがない。
次の瞬間、彼女は僕の存在を知らなかった。
世界から映画がなくなった。
映画を通じて仲良くなった親友。世界から映画が消えたとき、親友との関係はなかったこととなった。
大事なものを差し出して生きながらえた。
消しているのは実は電話でも映画でもなく、「記憶」あるいは「思い出」なんだ。
電王では「人の記憶こそが時間」という。過去で歴史が改変されても現代まで覚えててくれる人がいれば歴史は適切に修復される。
さらに「覚えている人がいれば修復される」ことの裏返しとして
「誰も覚えている人がいなければ世界から消滅したままになる」という。
「世界から猫〜」では現代で存在が消滅してしまうわけだ。現代にその存在を覚えている人がいない。すると、現代に至るまでの道筋もすべてなかったことになった。結果としてみんなとの記憶・思い出が消えてしまう。
まさにこれも「記憶」の積み重ねが時間となっているという解釈と合致する。
ちなみに電王では歴史改変の影響を受けない「特異点」という設定がある。特異点の人間が記憶を維持していても時間は修復されない。そういう意味では「世界から猫〜」で存在を消したという事実を覚えている佐藤健も特異点ともいえそうだ。
大事な人に忘れられる。その辛さは仮面ライダーゼロノスに通じるものがある。
彼は変身するたびに世界から忘れられていく孤独のヒーローである。
「世界から猫〜」も自分の存在を維持するために大事な人から忘れられていく描写を丁寧に描いていた。関係性の深さや消滅するモノがいかに大事だったのか、思い出を回想し現代で話をし、奪い消滅させる。なかなかやり口がエグい。
でも、今の自分を形成してきたのは紛れもなく過去だ。その過去を奪われてまで生きていく自分は一体何なんだろう。主人公も結局、そこに行き着く。
だから最後に消滅させるモノだけは自分の意思で選び取った。
悪い登場人物は出てこない。穏やかな日常。過去も今も。そしてこれからもこんな穏やかさが続くものだと思っていた。
死を目の前にして何気ない日常が切なくなる。生きるってどういうことなのか。
考えることができる。まさにそんな映画だった。