『パワーレンジャー』(2017)
パワーレンジャーといえば「スーパー戦隊シリーズ」のアメリカでの展開時の名称だ。
醜い平成仮面ライダーシリーズと違い、アベンジャーズ系列のように地続きの世界観でのシリーズ展開をしている。
日本におけるスーパー戦隊シリーズはそれぞれが単独世界観でありつつも「VSシリーズ」と「海賊戦隊ゴーカイジャー」このふたつが架け橋となり、ときに世界を共有している。
ちなみに今回の劇場版『パワーレンジャー』はシリーズ物としてのパワーレンジャーとつながってはいなさそうだ。この劇場版をみるための予備知識は必要ないと言ってもいいだろう。
学園青春!?パワーレンジャー
本作の大きな特徴は5人が何らかの問題をもった学生であることだ。
補修クラスに集まる落ちこぼれやそもそもろくに学校に行かない不良不登校というヒーロらしからぬ若者達が世界を守るヒーローとなっていく。
学園モノの戦隊ヒーローといえばメガレンジャーが頭に浮かぶ。デジタル研究部・デジ研のメンバーは学校生活を送りながら地球侵略を目論むネジレジアとの戦いを繰り広げていた。劇場版パワーレンジャーと違い、1年がかりの長編特撮である強みを活かした修学旅行や文化祭・受験などの学生イベントをきちんと描いている。
パワーレンジャーでは尺が足りずイベントらしいイベントは皆無と言ってもいい。
しかしその反面2時間という制約のなかでも学園青春物の特色が色濃く出ている。
どうしてそんなことが可能なのか。本作ではまさかの「戦隊もの」の要素を削ったことがパワーレンジャーの1つの特色になっている
劇場公開時、僕は本作を劇場で見なかった。あまり興味を持っていなかったというのもあるは、別の理由の一つに「変身しない」ことへの賛否が大きかった点が挙げられる。
そんなことをすっかり忘れてこの度Amazonプライムビデオを見てみた。
そして30分くらい経過して思い出した。そうか、あのときの否定的な意見はこれか。
このパワーレンジャーを語る上で留意しなければならないポイントは2つあると思っている。
それは「日本型戦隊ヒーローの構造」「米国型ヒーロー像のあり方」という2つの違いだ。
日本型戦隊ヒーローの構造
言い換えれば「日本の戦隊ものの要素」とはなんなのか、という話だ。
パワーレンジャーは元を辿れば日本の戦隊ヒーローである。45年も番組を継続していれば子供の頃あるいは自分に子どもができてから、どこかのタイミングでヒーローに触れる機会はあることだろう。たとえ縁がなかったとしても「戦隊もの」といえば5色のタイツのヒーローが巨大ロボで怪人を倒すようなイメージくらいできるのではないだろうか。それくらい広く知られた存在であると信じている。
さらっと触れたが日本の戦隊ものは「5色のヒーロー」「敵怪人」「巨大ロボ」が構造上の柱となっている。
つまりこの3要素が揃えば日本人は戦隊ヒーローを連想するように45年かけてしっかりと刷り込まれているのだ。この3要素を入れ込めば誰でもご当地ヒーローはだろうが、バラエティのパロディだろうが戦隊ものだと認識する。
東映側はこの要素を入れ込みつつも「崩し」を使いながら飽きないような仕掛け・工夫を凝らしている。そのおかげで近年は「初期メンバー9人」「巨大戦と等身戦の両立」なんかもある。戦隊でありながら戦隊らしくない作品をつくる。こういう要素を抜き取りつつ新しい試みを試す姿勢はどの社会でも大切だなぁと常々思う。
また、日本の東映2大ヒーローの「戦隊シリーズ」「仮面ライダーシリーズ」、あるいは円谷プロの「ウルトラマンシリーズ」で戦う主人公は若手イケメン俳優の登用が一般的だ。若手俳優の登竜門とも言われ、「ニチアサヒーロー」からの「朝ドラ俳優」を経験すれば一躍時の人へ成り上がるのも夢ではない。仮面ライダーW/ごちそうさんの菅田将暉、仮面ライダーフォーゼ/あまちゃんの福士蒼汰、仮面ライダードライブ/ひよっこの竹内涼真と例を上げればきりがない。ニチアサ1年半と朝ドラ半年の撮影を乗り越えて精神的タフになっていることだろう。
若手役者の育成という側面もあり、子どもに年の近いお兄さんお姉さんの役割を担う。結果的に経験の少ない若者が主役となり、ヒーローは若手がやるものだというイメージにつながる。
米国型ヒーロー像のあり方
実は僕アメコミヒーローに詳しくないんです。比較のためには勉強をしないといけないのは分かってるんだけど・・・。なので間違ったイメージかもしれないことははじめに謝っておきます。以前読んだネットの記事も参考にしています。(記事が見つかればきちんと引用したいところ。)
アイアンマンをはじめとしたヒーローは主に組織ではなく個人で敵と対峙する。
これには社会的地位があるものが責任を担う「ノブレスオブリージュ」の精神が影響している。もしかしたらキリスト教の「隣人を愛せよ」とも言えるだろうか。
日本では悪を捕まえて裁くのはそういう組織が担うものであり、個人が行うものではないとされることが多い。アメリカのヒーローは「個」の特色が強い。
また、そうした事情からヒーローは社会的役割を担っている「大人」である。
もちろんそのアメコミ大人ヒーローから外れたキャラクターもいる。例えばスパイダーマンである。シリーズは複数あるものの、スパイダーマンは未熟な若者である。
ガチガチなメカスーツでなく、タイツタイプのスーツを身にまとった若者ヒーロー、アメコミの中でも特に日本人気の高いスパイダーマン。そのヒミツは日本人に刷り込まれた日本型ヒーローに近い存在だからなのではないだろうか。
パワーレンジャーの誤算
日米のヒーローを比較すると、パワーレンジャーがそうとう日本のヒーローに寄せているのがわかる。きちんと戦隊ヒーローの要素も抑えた上で、若者に焦点をおいた展開だ。この要素を抑えているのになぜ否定的な意見がでてきたのか。
おそらくだが、視聴者と制作の認識のミスマッチが起きてしまったのではないか。
制作側は普通の高校生がどのようにして「パワーレンジャー」となったのか、そのプロローグになる物語を描きたかったのだと思う。それぞれのキャラの丁寧な背景や強くなるための裏付けがあることで、ようやく気持ちが一つになりパワーレンジャーに変身できたことでカタルシス得る構造だ。終盤になってパワーレンジャーに変身・暗躍していた敵と直接対決・ゾードによる巨大戦をぶつけてようやく戦隊ヒーローらしくなる。
リラが「クリスタルを狙うのは私だけでない」と、別のヴィランがいること示唆している。この世界での戦いはまだ始まったばかりだ。
パワーレンジャーを観る視聴者は慣れ親しんだ「戦隊もの」をイメージして劇場に入る。すると、終盤になるまで「戦隊ものの要素」がまるで揃わない。戦隊ヒーローを観に来たはずなのに、一向に戦隊が始まらないという自体に陥る。
アメコミヒーローでもなければ戦隊ヒーローでもない、なんとも微妙な立ち位置の話が続く。若者が心を通わせる学園青春アドベンチャーだと思って観始めればたぶんそれほど退屈しなかったかもしれない。
そもそも日本の戦隊ものは1話からめちゃくちゃに詰め込んでる。キャラの背景なんかは後回しで「まずは戦隊!」ってくらいに戦隊を描く。50話近くあるからこその余裕でもある
戦隊の要素を入れつつ、学園ドラマに尺を割く。
学園青春ドラマを観たい人は戦隊ものだと思い、戦隊ものを期待した人は肩透かしを食らう。そんな認識のアンマッチが色濃く出てしまったのが今回のパワーレンジャーなんだと思う。
続編への意欲も高いとのことだけど、学園パートを重視するのか戦隊パート重視にするのか、その舵取りと告知方法次第でまた評価は分かれることだろう。