つい、「仮面ライダー滅亡迅雷.net」って言いたくなる。netまで含めて滅亡迅雷なんだよなー笑
バルカン&バルキリーも発表された「ゼロワンOthersシリーズ」
Othersのロゴが「01」「here」を強調していて「ゼロワンは(いつも)ここにいるよ」というメッセージを感じ取ることができる。このロゴセンス好きだわ。
悪の組織側のスピンオフ・Vシネって珍しい気がする。エターナル以来?ゲンムも悪側ではあるのかな。
まぁ、滅亡迅雷.netはスピンオフできるよね。わかる。めちゃくちゃかっこいいもん!
イケメンパパ滅と、子供メンタルの迅と、成長していく暗殺ちゃん含めた3人パーティ時代から個性が際立っていた。特にイチオシは子供迅。子供に内在している無邪気さと残酷さがゼロワン1クール目を牽引していた。
その後も無自覚に飛電のスパイとして働いていた雷や不破をつけねらう謎の男として鍵を握っていた亡を投入。ザイアの天津にヘイトを集中させつつ、ときに協力してときに敵対しながら呉越同舟でゼロワンの物語を引っ張り続けた。
そして、人類・ヒューマギア共通の敵としてひとの悪意・アークを打ち負かした。
厳密には或人と滅は悪意に打ち勝ったが、悪意はだれの心にも芽生えるものとして終幕する。最終回では滅と迅が悪意を感知してアークの芽を紡ぐ者として自分たちの役割をリニューアルして再出発している。
そんな悪意を見守る滅と迅の活躍は『劇場版 仮面ライダーゼロワン REAL X TIME』で見ることができる。
今回の『ゼロワンOthers 仮面ライダー滅亡迅雷』は劇場版のその後の世界である。
今作の最大の見どころは「滅亡迅雷.net」の同時変身。これが見れて本当によかった。それにやっぱり仮面ライダー亡かっこいいわ。
では、以後ネタバレありで感想を語っていこう。
仮面ライダーゼロワンの物語はここに来て悪意・アークとの戦いから次のステージへ突入する。それは悪意による戦いではなく、正義と正義の戦いである。
暴走する正義。行き過ぎた正義感。これは悪意よりも強力な原動力になるという。或人や滅のような強いメンタルがあれば、悪意による負の連鎖を断ち切ることができる。正義はそれだけで正当性がある。常に正しい選択や判断を求められる現代に置いて「正しい」ことが正義なのだ。この正義の正当性をぶつけあう戦いが行き着く先は暴力だ。
武器商人:財団Xになれなかったザイア
ここに来て、いままでのゼロワン世界以上に現代社会の風刺的テーマを扱ってくるとは思っても見なかった。正直に言えばコードギアスのようなどちらの言い分も理解できる「正義VS正義」の展開は好みである。多くの人を扇動し能動的に戦いを駆り立てる分、悪意を植え付けるよりもエグくて笑う。
滅亡迅雷側はザイアに対して、「ヒューマギアの開放」を求める。ザイアがヒューマギアの意思を奪い、軍事兵器に利用することに憤ったからだ。
ザイア側は意識的に滅亡迅雷.netの正義感を煽る。ヒューマギア開放のため暴力に訴えることも織り込み済み。これを利用して絶対的な悪「滅亡迅雷.net」を作り上げて悪を排除するために軍事兵器としてのヒューマギアの必要性を訴える。
さすがヒューマギアを出汁として悪に仕立て上げ、ザイアスペックを売ろうとした会社。天津のやり方はザイアの企業文化に則った販促戦略だったことがわかる。
ちなみにゼロワンにメタルグラスホッパーの能力を与え、意気揚々と挑み敗北した天津。今回も滅亡迅雷.netに対して自分が制御できない大きな力を与えて、大敗する。これは人が変わってもやり方も全く同じなのがさすがザイアとしかいいようがない笑
というか、ザイアってヒューマギアに対抗してザイアスペックを販売してたよね。なにしれっと軍事用のヒューマギア開発・販売してるんだよ。迅ってザイアが修理したヒューマギアなんだけど、飛電製とシステム互換あるのか?それに本編ラストで意識は唯阿が復元してたけど壊れたボディを直したのはザイアなのかね。あと、ヒューマギアって「自動車」「テレビ」みたいな商品郡の一種なのかな。そうなると飛電インテリジェンスの商標じゃないことになる。そうなると飛電インテリジェンスはゼロワン世界においてヒューマギア事業の寡占企業となるし、ってことはザイアのような他社製のヒューマギアも存在することになるのか。よく考えてみれば突き詰めれば案外なぞが深い世界観だ。
滅亡迅雷.netの意思のままに
ゼロワン世界の設定の中で、どうしても納得できない設定。それはヒューマギアの人権問題だ。僕個人としてはAIもロボットも、「道具」である事実は覆しようがないと思っている。つまりこの考えは滅亡迅雷.netにとっては許されるものではない。抹殺される
だからどうしても「ヒューマギアの自由意志を認めないザイア」に対する怒りには共感できない。そもそも大半のヒューマギアはシンギュラリティに達さない。
シンギュラリティに達することこそ至高という迅の発想は、人間が自己成長を押し付けられるような息苦しさを感じる。
ザイア製のヒューマギアはゼアに接続するのとは違い集合合議システムによる決裁制を採用している。ヒューマギアに意思なんてものは認められない。
ヒューマギアの開放、自由への躍進が叫ばれている。しかし、自由というものはほんとうにいいことなのだろうか。自由でなんでもできることは逆に不自由になることもある。やりたいことを自由に選択できるようになったからこそ、何をやりたいのか悩むことになる。特定の役割をラーニングしたヒューマギアに、本当にやりたいことなんてあるのか。
なにはともあれ、滅亡迅雷.netはザイアに対抗して強大な力を手に入れた。
滅は不破に「大切な人を傷つけられたら許すのか」と問うた。不破は「許すわけない」と返す。これにより滅はひとつ吹っ切れて迅・亡・雷と合流してザイアとの決戦に臨む。このときの大切な人というのはヒューマギアの同志だったのだろうか。滅は許すことが正義なのかもしれないと悩んでいたのかもしれない。これが不破ではなく或人との問答であればまた違う答えになった可能性もある。かくしてザイアとの聖戦に足を踏み入れる。
その結果、滅亡迅雷.netは世間にとっての絶対的な「悪」の象徴として名を挙げてしまう。そのうえ滅亡迅雷.netの肉体を破壊し、暴走状態になったまま作品は幕を閉じた。
事実上のバッドエンドだ。
そのままバルカン&バルキリー編へ続く。「仮面ライダー滅亡迅雷」作品単体としては最悪の結末だ。こういう構成であるのならば前後編とはじめから銘打ってほしかったところはある。バルカン&バルキリーも宣伝したいのはわかるが、このやり方はどうなんだ。エグゼイド編みたいに最初からシリーズとして発表しておくか、ビルド編のように作品として独立した物語を展開するのが筋だ。本当に「滅亡迅雷」組が好きだった人にとっては声が出ないようなクライマックスだったに違いない。
滅亡迅雷.netの絆の深さやヒューマギアへの愛が仮面ライダー滅亡迅雷を生み出した。4人は自分たちの意思を越えた制御できない力を手にしてしまった。バルカン&バルキリーではどう締めくくるのか。このつづきは秋までお預けだ。ついに完結するゼロワンの物語、トゥルーエンディングとなってくれることを祈る。