ゆうがたヒーロー

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『機界戦隊ゼンカイジャー』22話 ガオーン回。人間とキカイノイドへの区別に疑問を投げかける

スーパー戦隊シリーズ 機界戦隊ゼンカイジャー VOL.1 [DVD]

 

ゼンカイジャーって特撮作品はどういう情緒で視聴に挑めばいいのか、毎週困惑している。

 

トウギュウワルドが人間を闘牛にして特攻させるってあらすじだけだと、いつものゼンカイジャーだなって思うじゃん?ゼンカイジュウギアが家出?!って予告でも「うんうん、いつものゼンカイジャーだな」って安心するじゃん?ステイシーがまたお忍び来店するって分かれば、カイトの両親絡みのシリアスかな、って予想はできるよ?

でもここでガオーンの人間選民思想に突っ込んだシリアスを話の主軸にするなんて誰も思わないじゃんか!!!

 

ゼンカイ脳こっわ!これを半年間も作り続ける制作陣怖すぎる。どんな精神状態ならこれを同一エピソード30分でまとめ上げられると思うんだよ!それで、なんでできちゃうんだよ!最高か!

 

 

ガオーンの嫌悪と自意識

モモタロスとウラタロスの絡みに慣れている特撮勢からすると、ジュランとガオーンのいがみ合いもただのじゃれ合いの範疇として見ていられる。それにキカイノイドであるガオーンが人間(動物)を愛でるという設定は、人間が猫を愛でることの逆転として受け入れやすかった。しかし、キカイノイドという特殊な見た目であることが作用し、そこに根ざす選民思想排他主義をオブラートに包んでいた、という事実に気づき戦慄してしまった。確かに、相手が「人間」であれば露骨に対応を変えるというのはあまりよろしくない。ガオーンがキカイノイドであり、嫌悪の対象もキカイノイド、嫌悪の描写は仲間ばかりに向けられていた、ということもあり、このキャラクターの特殊性にまったく気づかなかった。

 

これを人間5人の役者を揃えた戦隊ものであれば、到底ありえない設定だ。日曜の朝に子どもたちを夢中にさせる戦隊ものとしては、あまりに濃すぎる。人間で演じてしまうとあまりにも生々しく、不快感が浮かび上がってきてしまうのだ。ガオーンに限らずジュランらの設定も皆、キカイノイドだから見ていられる節がある。

 

キカイノイド嫌いにも元はガオーンの自意識という重たさがあるんだけども、コメディ・ギャグ過剰なゼンカイジャーにおいては「人間優先」もギャグとして片付けられる。それをあえて問題提起してくるのは意図的としか思えない。ここでこの問題を取り上げることにより、相手の属性によって対応を変えることの不誠実さが浮き彫りになった。スーパー戦隊シリーズは教育的な側面を併せ持つ。説教臭さが出ない程度でエンタメとして楽しみながら教育的な啓蒙活動をするバランス感覚には脱帽するばかりだ。

ステイシー絡みで次回へ続くという引きがなければおそらく、最後にガオーンがジュランを邪険に扱ったあと照れ隠ししながら「まぁでもごめん」みたいなエピローグで終わっていただろう。というか僕の脳内にはその場面が見える。

 

 

ジュランの裏方スキル

キカイノイドって年齢がわかりづらいけど、「ちょいワルおやじ」的な年代であるらしい。とすれば、作中ではヤツデの次の年長者ということになり、ゼンカイジャーの保護者のような立ち位置にあることに気づく。あーだこーだいいながら、ときに叱り、ときに励ます。今回のガオーンに対して「人間の子どもにも同じことをしたのか」と言い、同時に「言い過ぎた。ごめん」と謝れる。マジーヌや子どもたちがお化けに夢中ならば人知れずお化けに徹する。かなり理想的な年長者じゃないか?暴走したり突っ走ったりする仲間が多いなかで冷静に一歩引いてフォローに回れる。これまでの「レッド」とはまた違うタイプであることは間違いない。

かき氷を食べてる界賊一家とのやりとりがすごくよかった。窮地を脱するときにはジュラン&ゾックスでの組み合わせもいいんじゃないかな。

 

 

ugatak514.hateblo.jp