ゆうがたヒーロー

日曜の朝でなくても誰だってヒーローに憧れてる

SNSってなんなんだろう。皆が求める「いいね」の正体

「いいね」を購入につなげる 短パン社長の稼ぎ方

※画像はイメージです。本の内容とブログ内容は一切関係ありません。

 

 

前回のあらすじ

「なんでいいねがほしいの?」という率直な疑問をぶつけられて困った経験から、インターネット史について思い出してみた。そして世界はSNS全盛期を迎える。

 

ugatak514.hateblo.jp

 

 

 

 

かつてTwitterに「いいね」という機能はなかった。代わりにあったのは星マークの「お気に入り」通称ファボ(favoriteより)。

調べると2015年頃から仕様変更されてかれこれ5年くらいになるようだ。

今の児童生徒がTwitterに触れるのかどうかさえわからないが、今20歳の大学生くらいの子は15歳でTwitterを始めた頃にはすでにファボなんて存在しなかったことになる。なんて恐ろしい・・・。

ネットで検索した程度ではあるが、この変更には「ファボがなんの機能なのかわかりにくい」ということから「いいね」に移行したような節があることがわかった。

確かに考えてみればやっていることは同じにも関わらず、感覚的な違いからかファボだと使いづらい印象がある。「いいね」のほうが直感的に使いやすい。

AppleGoogleが徹底して「感覚的に使える」仕組みを整えた結果、よくわからない機能というのは致命的なくらいに使いづらさを強調する。

Facebookは「いいね」という名称ですでに実装されており、後に喜怒哀楽の感情表現を加えた「いいね」を追加している。

 

Instagramが力をつける前はTwitterFacebookを中心に「映える写真」を載せるのが流行っていたとおもう。

なんとなくこのあたりから一部不思議な人たちが目に見えてきた。美味しそうな食べ物やジャケ写みたいなかっこいい写真を撮ることへの執念を持っている人が目立ってきたのだ。誰もが雑誌の1ページのようなキラキラした場面を切り取っていた。

 

この「映える」写真を特化させたアプリがInstagramだと思っている。

ブログ→TwitterInstagramと、個人が書く文章は確実に減り短文から画像特化となった。

「難しい文章なんて考えなくてもいい。まずこの画像を見てくれ」と言わんばかりの反言語時代となった。アプリの加工技術も相まってこぞっておしゃれな画像を投稿していった。

 

この画像時代は「いいね」機能との相性が良かったんだと思う。

文章はいくら推敲しても、受け手が「読む」という行為を経て「理解」した上で「共感」して「いいね」をする。

画像は多くの工程をすっ飛ばして、直感的に快/不快を判定できる。快な画像を「いいね」するのは簡単だ。

 

非情に厄介なのが、この「いいね」だ。ネーミングにもあるようにプラス感情の共感を示すコマンドだ。なぜだかこれをもらうと、自己肯定感が高まる。洒落た画像を投稿して知らない人にも「いいね」をもらう快感はこれまでのネット社会では経験したことのない類のものだろう。

いいねをする側も負担がなく軽い気持ちで押せるだけに、一度波に乗れば雪だるま式に評価が高まる。

いいねやフォロワーの数が自己肯定感を数値化してくれる。

 

また、社会的にも「自己責任」論が蔓延してすっかり定着している節もある。

今の時代、会社や学校に頼るのではなく「個」を高めていくことが必要だ、という考え方も増えた。

そうした社会分断が進んでいる中で、自分が活躍できる場所を手軽に探せるのがインターネット、特にSNSだった。

ビジネス面でもSNSは自己責任社会で必要となる個の力を可視化して高めていくのに一躍を買った。

「自分の発信が認められ、自分の発信を待っている人がいる」SNSでの発言の注目度が高まっていくほど、ビジネスがしやすくなっていった。いわゆるインフルエンサーの登場だ。単なる承認欲求が商売の土台となったのだ。

 

 

「なんでいいねがほしいの?」という問いの答えはこのふたつなのかもしれない。

①数値化された自己肯定

②ビジネスで武器になる土台づくり

 

 

マズロー欲求段階説に当てはめると①は4段階目の承認欲求、②は5段階目の自己実現の欲求に近い

だけども、3段階目の「社会的欲求(帰属欲求)」を満たさないまま上位欲求を求めすぎているのではないかと思う。

所属社会でうまくいかなくても自分の居場所を見つけられるのがSNSの強みだ。だけど、この土台がおろそかになっているとバランスが崩れてSNSの社会のみでしか生きられなくなってしまうかもしれない。

僕自身もSNSをやっているし、こうしてブログを書いてなにかしら発信をしているけれども、そのあたりのバランス感覚を忘れないようにしていきたい。

 

 

ところで、Instagramの普及からTik Tokブームが起きた。

画像よりも情報量の多い動画に移行した。人の欲望はジャケ写への憧れからPVへの憧れに昇華したのだ。

文章はその言葉を読めるものにしか扱えない。画像や動画は言葉が分からなくても伝わる情報は多い。感覚的に分かるものが好まれる現代、おそらくこれからも画像や動画のブームは加速していくだろう。そして対象的にブログなどの文章メディアを好むものは減っていくと思う。

しかし、だからこそ「文字」の価値は相対的に上がっていくと思う。

いくら画像や動画が発達しても現実では言語で伝える必要がある。そうした際に文字を読む・文章を書く訓練が絶対に必要となる。

支離滅裂な言葉を話す上司先輩同僚顧客を相手にしたり、意味や意図のわからないメールを処理したり、言ったことが全く伝わっておらず二度手間になる。

結局何が言いたいのかわからなくなっちゃうことも多いけど、文章を書く訓練ってのは本当に大事だと僕は思う。だから僕はブログを書くのだ。

これからの時代、文字や言葉を扱うことの大切さがもう少しでも見直されると嬉しい。

 

 

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