どうしようもなく夏。なぜタイドラマに惹かれてしまったのか
蝉が鳴いている
外が明るい
まだ寝ていたいと思いながらも頭の上の時計に目を向ける
朝の6時過ぎ。休みの日としては朝が早すぎる
それなのにカーテンから漏れる朝日と朝から元気な蝉が否が応でも僕を起こそうとする
窓の向こうの世界は今日も身体が溶け出しそうなくらいに灼熱なのが、部屋にいてもわかる。
だから夏は嫌いだ
日本には四季がある。最近は極端になりつつあり、将来的に二季になるような可能性も示唆されているが、ひとまずは四季がある。
「そんなの人によるだろ!」と思うかもしれないが、人は夏が好きである。
川やプールや海水浴、バーベキューや夏フェスライブ、お祭りに花火大会。とにかくイベントが多い。正気でない暑さを乗り切るにはなにか楽しいイベントが必要だったのかもしれない。あるいは太陽光が人にエネルギーを注いでいるのかもしれない。「夏は人間を活動的にする」昔よくみていたバラエティ番組で脳科学者がチンベルを鳴らしつつそんな自説を述べていたような気がする。世間は夏が好きなのだ。
ひとたび外を歩けば額から汗が吹き出てくる。整えた髪もお気に入りのシャツも全部台無しになる。おかげで、せっかく準備をしたのに目的地につく頃にはすでにテンションが下がっている。だから夏は嫌いなのだ。だったらわざわざ外界に出ずとも部屋で楽しめることを探したほうがよほどいい。
初めてタイドラマを見てから3年ほどが経過した。たった3年でこうも嗜好が変わってしまったことに自分が一番驚いている。日本でも数多くのドラマが放送されているように、タイでも多くのドラマが放送されている。追いきれないほどのタイドラマ。冷房の効いた快適な空間でタイドラマに耽る、現実の業火を忘れる単純な解だ。
「タイドラマは映像が綺麗」「脚本が素晴らしい」「演出が神」
タイ沼民がタイドラマを褒め称える理由はそれぞれ違う。だけども最終的には同じような理由に収斂していく。僕も含めてオタクは客観視できず、身内だけで共感が広がり、それがあたかも一般常識かのようになっていく。
タイドラマにハマる理由は上記のようなものだけなのか。
タイは常夏の国。年間の平均気温が29℃くらいだとか。
タイドラマはいつ何を見ても「夏」なのである。クリスマスだろうが年越しだろうが視覚的には夏だ。日本のドラマのように映像見て瞬間的に「いまは冬なんだな」「服装が変わったから夏になったんだ」と思うことがない。(タイの気候や文化事情に精通している人であれば月日の経過表現のための細かい服装の変化(?)に気づくこともあるのだろうか)
人は夏が好きである。
タイは夏である。
つまりは人はタイが好きである。
もしかしたら、これが僕らはタイドラマに惹かれてしまう理由のひとつなのか。
「ひと夏の恋」というありふれた言葉がある。
日本において「夏」は周期的で有限なものである。
だからこそ燃え上がるような気持ちも、熱に浮かされるような感情も、ひとときの夏のせいにして、また次の季節へ向かっていく。日本では夏の終わりを線香花火で演出しがちではあるが、パチパチと勢いよく燃え上がったかと思えば突然シュンとして消え落ちる。日本における「夏の恋」とは不思議なことに桜のように儚く脆いイメージとも結びつく。古来より日本人は昔から儚いものを愛してやまない。
動と静。燃えるようなエネルギー溢れ出る恋心と終わりある儚い夏。この組み合わせが「ひと夏の恋」として僕らの感情を大きく揺さぶるのだ。
タイの恋愛ドラマは僕らの「もっとも燃え上がる夏」を凝縮している。
大抵の場合、仲間内で海へ旅行に行き、昼間は海で遊び夜は海辺でギターを弾く。
そして意中の相手とふたりでこっそり夏の海を堪能する。ふたりだけで見た海はふたりだけの秘密としてノスタルジックな思い出となる。あたかも「ひと夏の恋」かのように。
これまでに見たタイドラマ、特に恋物語を思い出してほしい。どの作品も「夏」であり「ひと夏の恋」のような儚さがあったのではないだろうか。
ちなみに個人的に特に夏を感じさせるのは「I Told Sunset About You」である。
うだるような暑さの中の受験勉強やリゾートでの勉強合宿、美しい海、秘密の海岸、明け方の砂浜。思春期の恋心と受験期間という明確に終わりのあるテーマが擬似的に「ひと夏の恋」のように儚いものとして作用している。
このドラマがどうしてこうも僕らの胸を打つのか、演出や俳優陣の素晴らしさは当然のことながら、ぼくらの「夏」にあまりにも合致したことも要因だったのだろうと、今になって思う。
嫌いだったはずの夏。
でも夏から逃れるために好き好んで見ていたものの正体は夏そのものだった。
つまるところ、僕は夏が好きだったのか。
どうしようもなく夏