感想『コーヒーが冷めないうちに』有村架純&伊藤健太郎。未来で幸せであるために
『コーヒーが冷めないうちに』(2018)
たぶん2018年9月当時、いっぱい宣伝・告知してたんだと思う。
劇場には足を運ばなかったけど作品は知ってるし、有村架純が主演なのも印象的だから。
どうせ「心温ある感動物語」とか大々的なCMもしていたんだろう。いや、記憶もないのでぜんぜんしてなかったらゴメンナサイ(きちんと調べるべきだろうか…)
感動同調というか、感動を狙いに行く告知があまり好きじゃないから観に行かなかったんだと思う。
あと、役者陣に強い推しもいなかったし。。ごめんね。
お酒を飲みながら期待しないくらいで観てみたけど、想像以上におもしろかった。
なんだろうな、役者が豪華で手堅いだろうなーとは思っていたけど、構成なのか演出なのか・・全体的にほっこりととてもよかった。
あらすじはコウだ。
舞台となるとある喫茶店。ここには「自分の任意の時間に飛べる席」がある。
そこの座席に座り、願うと自分の生きたい時間に行きつくことができる。
ただし条件がいくつかある。例えばその座席には幽霊の先客がいる。座席に座るには幽霊が席を立ったときを見計らうしかない。また、座席について特定の血筋の者にコーヒーを注いでもらう。そのコーヒーが冷めきる前に過去でコーヒーを飲み干さなければ過去から抜け出せなくなる。などなど。
映画冒頭に文字で説明があるが、劇中でもお客さんに解説するシーンがあるのでルールを暗記しなくても安心して映画を観ることができる。
「過去に戻れる」こんな噂を聞きつけてお客さんが過去に飛んでいく半オムニバスストーリだ。
主演の時田数(ときたかず)役の有村架純はどうしてこう少し後ろくらい過去がある役が似合うのだろうか。
むしろ寄せてきてる??いや、おれがそういう有村架純を求めている??
岡田健史との禁断の愛を演じた『中学聖日記』や高良健吾と難しい恋を経験した『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の印象が強すぎるのだろうか。
ちょっとうつむき、どう見ても平気じゃないのに「わたしは平気だよ」ってつくった笑顔を見せるイメージ、わかりませんか?笑
今回もちょこっと幸薄そうな役デス。
なにがそのイメージを強めたかって「恋人よりも友達をつくりなさい」ってよく言われること。
こんなかわいいのに友達もいない。。。なんて可愛そうなんだ。
伊藤健太郎演じる新谷くんが誘って彼の大学のサークル仲間(?)と遊ぶシーンはとっても楽しそう。
まぁ、高校をちゃんと卒業しているのかはわからないけれども「THE 大学生」みたいに学食食べたりカメラサークル?の撮影したりカウントダウンイベントしたりするのは楽しいんだろうなー。
こう、世間一般の「大学生」のイメージの具現じゃないですか。
実際の大学生ってこんなに遊んでもいられない人もいるし千差万別な大学生活を送るんですけど大体のドラマ映画小説漫画の大学生って異常にキラキラと楽しんでますよねー。。。
(僕が楽しい大学生活を送ってないかのような言い方ですけど、僕も満足行く大学生活送りました。笑)
そんな大学生の楽しい部分を共有してくれた新谷くんこと伊藤健太郎くん。
彼もいまグイグイ伸びてていいですよねー。僕は『学校のカイダン』で注目してたけど最近だと『今日から俺は‼』『スカーレット』での活躍が記憶に新しいのかな。
個人的には『スカーレット』での武の演技がすごくよかった。戸田恵梨香を「お母ちゃんお母ちゃん」って言ってる好青年がグッとくる。
そんな彼が演じる大学生新谷くん。
ごめんなさい、正直ヤリチンキャラかと思ってました笑
あんなにもちゃんとふたりの未来まで焦点を当てて責任を持って結末まで描くとは思ってなかったです。
あんなチャラチャラした大学生生活ならおとなしくて清楚系陰キャラ美人の有村架純を振り向かせて何度かやったら飽きちゃうかと思ってました。
彼女の重たさを(ッチ めんどくせーな)とか思っちゃう系かと思ってました。マジでごめんなさい。
考えてみればこの映画がそういうキャラとの相性も良くないし、そんなわけないんだけどね。なぜかそんなことをおもったわけで。。
でもハッピーエンドでよかったです。笑
なんかフライングして申し訳無いですけど、以下ネタバレ込での感想です。
本作は過去に飛ぶ人物で章が分かれており、全4話をイメージしてもらいたい。
個人的に好きなのは2話の「夫婦」の話
1話でも客としていた常連の女性が主人公の時田を「はじめてのバイトさん?」と尋ねる。
彼女が認知症だということを視聴者に知らしめ、迎えにきていた男性が旦那だという事実が発覚する。
彼女が渡せなかった手紙があると知り、旦那は手紙を渡そうとしていたであろう過去に飛んでいく。
この喫茶店の「時間を飛べる」ことを知っていた認知症発症以前の彼女はすぐに未来からきた旦那だということに気づく。
ここのロジックの美しさは、「未来から旦那が来たということ」から「自分は近い将来旦那を忘れてしまう」という思いを強固にしてしまうことだ。
忘れていく恐怖はどんなものだろうか。
旦那は忘れられてどれくらいの月日を過ごしたのだろうか。自分を認知してくれる妻との会話は久しぶりなのは確実である。
短い時間だけれどもきちんと夫婦が向き合って話をするシーンはひとことひとことが染みてくる。
「時間は記憶の積み重ね」仮面ライダー電王での時間の定義だ。
ハイデガーも「存在と時間」というふたつの概念を結びつけている。
写真や動画で一時的に「時間と記憶」をデバイスに封じ込めることができるようになったけれども、時間や記憶という概念はいまだ人間が超えることのできないものだ。
本作は時間を超えることができる。
結果を変えることはできないけれども、時間を超えた先での体験は記憶として積み重なり、過去に飛ばなかった場合と比較して自分の存在を確かに違うものにしてくれるに違いない。
過去があるから今がある。過去があるから自分が存在している。
この映画では特にそんな壮大なことなんか言っていない。
でも映画みたいに過去に飛べない僕らは当たり前の今を噛み締めて生きていったほうがいいのかなと思う。